SHINJI HOSONO PHOTOGRAPH

Vol.3 佐藤優さん 5

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佐藤:自由劇場は玄人筋というか、作家やイラストレーターなど文化人に熱心なファンというか応援団が多かったからね。その一方で演劇評論家にはあまり認められていなかった。

アングラ芝居の出身の演出家というと、佐藤信、唐十郎、寺山修司という名前は出てくるんだけど、串田さんの名前はなかなか出てこない。

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前田:それは串田さんが最初からメジャーフィールドで成功できる体質を持ってからではないでしょうか。演劇に詳しくない僕が言うのも変な話ですが、当時の音楽評論家にも同じことが言えるからです。

音楽評論家はいつまでもアンダーグラウンドな要素をもっている音楽を高く評価をするけど、ブレイクしたアーティストには厳しかった。メジャーなアーティストを抱えるレコード会社や事務所が対策に苦労しているのを目の当たりにしていました。


藤江:少し話を戻して、佐藤さんとの出会いで演劇の世界で写真を撮るようになったわけですが、その頃はもう音楽の写真で忙しかったんですよね。そちらとの兼ね合いってどうだったんですか。

細野:真規さんからも、ずっとBunkamuraで記録を撮ってくれとは言われていて、でもそれがどういうことなのか、その頃はよくわかっていなかった。『上海バンスキング1991』はファンハウスの商品でもあるし、写真集という特別な仕事でもあるから。

あとから実は演劇の仕事ではかなりイレギュラーなものだということがわかってきたんです。演劇の仕事がレギュラー化してくると、「こんなに拘束時間長いんだ」とか「こんなにギャラないんだ」というのがわかってきた。


佐藤:演劇、特に新劇と呼ばれていたものは、本当に貧乏な世界だからね。

細野:当時ボス(齋藤清貴)の事務所にいたから、普通、写真が印刷物で使われると、一次使用、二次使用というふうに使ってもらうたびに、使用料を請求するわけじゃない。またそれに一点いくらって規定料金も決まっている。

演劇の世界にはそういう感覚はないですね。だから随分佐藤さんにも厳しいこと言ってしまった。


佐藤:僕も「え、そんなのあるんですか」という感じでしたからね。


細野:佐藤さんには随分お世話になったし、それで自由劇場ともお付き合いできるようになった。でもお金にはまったくならない。

感材費(狭くはフィルムの現像にかかる費用、フィルム代、印画紙代なども含む実費。多くの場合カメラマンがたてかえる)が予算がないというのには、さすがに驚いた。そういう実費は公演のパンフレットを作る時に佐藤さんがケアしてくれた。


佐藤:そういう材料費のいらないデジタルの時代じゃなかったからね。

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(続きます)