SHINJI HOSONO PHOTOGRAPH

Vol.3 佐藤優さん 8

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藤江:その佐藤さんが96年にコクーンの仕事を辞めてしまう。

細野:そこからが大変でした。例えばこれが佐藤さんと作った92年の『コメディア・ピノッキオ』という芝居のパンフです。これを作った時は楽しかったなあ。これは演劇的でかっこいいなと思った。

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藤江:佐藤さんにしか作れないものですね。


細野:でも編集者ってカメラマンの良き理解者ですよね。それがBunkamuraからいなくなったわけです。だから僕としては演出家寄りになっていった。蜷川(幸雄:99年からシアターコクーンの芸術監督)さんとも直接コミュニケーションをとるようにした。そうしないと蜷川さんに「何やってんだ!」と怒られて、撮影できなくなってしまう。


佐藤:演出家に「細野さんってこういう撮り方をする人です」って翻訳してあげる人が、本当は必要なんです。だって蜷川さんにしたって、細野さんのような動きをするカメラマンなんてこれまで知らないわけだから。Bunkamuraのプロデューサーにはそういう翻訳をするタイプはいないかもしれない。


細野:だから演出家の人と直接話をするようになったんです。96年が僕にとって、ひとつの節目になった。


藤江:その後、佐藤さんと仕事する機会はなくなったんですか。


細野:少しだけ空くんですけど、佐藤さんが、開場した新国立劇場のパンフの仕事をするようになり、すぐに声をかけてくれて、またすぐつながった。


佐藤:僕が新国立にかかわったのが98年。僕にとっては困った時の「細野頼み」というのがあったからね。毎回頼むというわけにはいかないけれど、シェイクスピアの大作だったり、宮本亜門のミュージカルだったり、劇場として勝負の公演は、細野さんに頼むの。勝負パンツじゃなくて勝負カメラマン(笑)。

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(続きます)