Vol.3 佐藤優さん 10
藤江:俳優辞めてからは?
佐藤:立教大学のひとつ上の先輩に、大里洋吉(芸能プロダクション・アミューズの創業者、現取締役会長)氏がいて、当時全盛期だった渡辺プロダクションのマネージャーだった。有名な、キャンディーズの「普通の女の子に戻りたい」と引退を演出したのは大里さんなんですがね。
彼とは大学時代に芝居を通じて顔見知りだったので、「なんかやんないか」って声をかけてくれて、それで天地真理や伊丹幸雄、あいざき進也などのアイドルのショーの演出、というより舞台監督みたいなことをやるようになったんです。それからラジオのディスクジョッキーの台本も書いた。
みのもんたさんは同じ立教高校の演劇部の3年上でOBとして知っていたし、土居まさるさんも大学の先輩だったこともあり、文化放送によく出入りしていました。みのさんにはよく付き合ってもらって、仕事が回り出したから、学生時代の仲間と会社を作ったんです。
そこで映画作ったり、コピーライターやったりした。ちょうど糸井重里さんなんかが脚光を浴び始めた頃で、「一行100万円」と言われたコピーライターの時代。天野祐吉さんの『広告批評』のマドラという会社では随分稼がせてもらった。もちろん「一行100万円」は無理でしたけどね(笑)。
その次が雑誌で、マガジンハウスのライターになる。「an an」から「週刊平凡」「ダ・カーポ」までやりました。美空ひばりが死んで旅館に缶詰になり原稿を書いて一週間で追悼本出したりしたなあ。集英社の「明星」と競っていた時代です。そこから、こちらの世界(演劇)ですよ。
もちろん演劇はずっと追いかけていたんですが、Bunkamuraの仕事のきっかけは、串田光弘さんなんです。広告やっていた時代に彼がデザイナー、僕がコピーライターで一緒に仕事することがあって、知り合いだった。Bunkamuraができる時に光弘さんが「やってみない」と誘ってくれたんです。
藤江:いや本当に編集者だなあ。つねに時代のビビッドなところで仕事してきたという意味でなんですけど。
佐藤:僕のことはいいんです。細野さんとの仕事の話に戻しましょう(笑)。
(続く!)